聞いた話によると、ライオンの子供は生まれてすぐは肉を食べない。
草のみを食べても生きていける。
だが初めて食した血の味、
これは毒を盛られたに等しく、一生を通じそれを取り除くことはできない。
今のジェフティも同じだ。

その日から、ジェフティの長く美しい髪は消え去った。
代わりに肩までしかない短髪が残った。
そして無力感やためらいといった感情も、髪と共に消え去った。
私はこれまで、映画の中で女性が髪を切るシーンの殆どを芸術的に見せるための創作と捉えていた。
今ではそれが一種の精神的暗示であることを嫌でも理解させられている。
それに気づいてしまった以上、もう戻れない。
前回の狙撃事件は町全体に大きな衝撃を与えた。
だが、東欧戦線での戦闘は激化している。
上層部に事件を追及する余裕はなく、
調査もそこそこに、全てを連合軍ゲリラのせいと断定した。
私たちはそのことに感謝した。
全くの素人が軍の精査から逃れられるとは思えなかったからだ。

それから二か月も経たないうちに、
このごく小さな町の駐留軍リストから更に3名の名前が消えた。
そしてその下にM.Cと書かれた名前が一つ。
隠すまでもない、全てはジェフティと私がやったことだ。
町周辺の地形は絶好の隠れ家となり、
冬の森は私たちの足跡を容易に消し去った。
私たちが疑われたのは単純にタイミングの問題だ。
しかし、私には特別な地位があり
ジェフティは一見すると冷血なスナイパーには見えなかった。
その時は容疑者リストからはすぐに外された。
だが、このような幸運が無償で与えられるわけがない。
私は神様とやらに優しくされた経験などないからだ。

「久しぶりだな……」
背もたれの高い椅子に座った男は慇懃な声で呼びかけた。
言葉だけなら日常会話に取れるだろう。
だが、そこには深い軽蔑の意志が込められている。
「全く、宿命からは逃れられんようだな……」
「……できれば会いたくはありませんでした……少佐殿。」
目の前にいるのは他でもない。
“第一次戦争の英雄であり、連合軍ゲリラ部隊を単独殲滅した陸軍航空隊の新星”
同時に占領地に対する苛烈な政策で物議を醸したカーネル少佐。
彼は東欧戦線での戦功により急速に昇進した。
だが、私にとっては共犯者以外の何物でもない。
軍服を着た卑劣な人間が。
「……記者の職業病というやつか?口を開くだけでこちらを不快にさせてくれる。」
少佐はワインを満たしたグラス越しに一瞬目を細めた。
屈折し歪んだ顔に殺意が満ちている。
「私は少佐という地位を自らの成果によって勝ち取った、それを疑う人間などいるはずがない。」
つまり疑う人間はみなこの世にいないということなのか?
お前の部下たちも!
「あなたの言いたいことは分かった……」
本題に切り込むことにした。
こいつと話を続けるのは耐えられそうにない。
「ここで一体何を?」
「ほぉ……お前は知らないのか……」
少佐は意味ありげに私を見た。
「この二か月で4人の兵士が狙撃され死亡、1人が負傷した」
「このとても平和な町でな……」
少佐は不敵な笑みを漏らす。
また血の臭いを嗅ぎつけたのか、忌々しいハイエナ野郎が。
「それはゲリラ部隊がやったと聞いてます、連合軍の……」
「そうだ、ゲリラのネズミどもがやった。」
「我が軍で正式採用されているライフル・弾丸を使用してな。」
「実によく準備されている。」
「私はこの問題を綺麗に解決するため来たのだよ」
「あなたは……」
「ところで、だ。3か月前にここの兵士が備品のライフルを紛失したと報告してる。」
「君は知らないだろうがな?」
少佐は私に背を向け、嘲笑と獲物を前にした興奮を隠そうともせず話しかける。
そう、猫がネズミを前にした時と同じだ。
兵舎を出てまず考えたのはここから逃げ出す方法だった。
少佐は既に私を疑っている。
いや、違う。
あいつは事件の真相を知る最後の人間を殺しに来たんだ。
そう、私が最後の一人。
だが、弾丸はあと一発残っている。
このままではジェフティは一緒に来ない、それでは意味がない……!
ジェフティをここから連れ出さなければ。
だが、ジェフティを連れていく方法を考える間もなく少佐は行動を起こしていた。
まず町全体に夜間外出禁止令が出され、パトロールの人員は倍増された
町へ出入りする全ての人にIDが付与され、全住民はエリア毎に隔離された。
同時に町の各所にISシステムが設置され、町は監獄と化した。
もはや、計画の継続は不可能だった。
ジェフティを一刻も早くここから脱出させなければ。
姉の手配した帰国便まであと1週間ある、それまでに何とかしないと。
その時はそれしか考えられなかった。
「ジェフティ、ここを出よう。」
「ヴィーナとガモンが一緒でも大丈夫だから。」
私は銃を抱きかかえたジェフティを見つめた。
彼女は何も言わずに隣に座る。
彼女の手は無意識のうちに銃を撫でていた、
まるで戦争で子供を失った母親が人形を撫で慰めているかのように。
ジェフティに今残されたのは銃だけだ。
ジェフティを抱きしめながら、私はいったい何をしたのだろうと泣いたのをぼんやりと覚えている。
彼女の身体は冷たく震えていた。
石膏像のように固く、何の感情もない。
見知らぬ男の腕に抱かれてもその様子は変わらなかった。
私はジェフティを強く抱きしめた。
少しでいい、彼女に温かい気持ちを取り戻してほしい。
以前の生活に戻れるように。
どれくらいの時間が経っただろうか、私の顔を冷たいものが伝った。
自分自身の涙だと思った。
だがしばらくして気づいた、それはジェフティの涙だった。
「ジェフティ……」
それ以上の言葉を待たず、ジェフティは私の肩にかみついた。
嗚咽を漏らしながら、まるで結晶のような涙が私の服や地面へ滴り落ち静かに月光を反射して消えた。
この瞬間までジェフティは感情が決壊するのに耐えてきた。
そして今傷ついた子熊のように泣き叫んでいる。
暗色のドレスを月光が優しく透過していき、屈折した光がその下を悲痛に照らしている。
「私と一緒にここを離れよう、きれいな場所でずっと暮らそう。」
ジェフティの髪を撫でるとまだ爽やかなユリの香りがした。
それでもジェフティは首を横に振った、彼女は最後の弾丸を放つまでここを離れないつもりだった。
予想していたことだった、だがその瞬間に私の心は絶望で満たされた。
私が、ジェフティの全てを変質させた。
彼女の痛み、喜び、苦しみさえも……
そしてこうなった以上、私は自身の全てをもって彼女を支えるしかできなくなった。
何事にも必ず終わりが訪れるはずだ。
しかし、ジェフティが幸せな日々を取り戻す前に全てを失うなど絶対許されない。
少なくともこんなところで終わるべきではない。
だから私は賭けに出た。
自身の全てをベットして。
「ジェフティ、少し話を聞いてくれないか?」
「あるところに、有名になって自身の存在価値を証明したがった記者がいた。」
「彼は勝手に従軍記者になり、パトロール中の軍隊に同行する機会を得たんだ。」
「彼はこのチャンスを逃すまいと思った。」
「そして偵察中の兵士に、写真撮影のためランダムな場所を砲撃するよう依頼した。」
「だがその日は一帯が霧に包まれていた。」
「兵士たちも選んだ場所に民間人がいることに気づかなかった。」
「だから彼らは何の疑問もなく発砲し、数えきれないほどの人間を殺した。」
「その記者は……」
「待って、言わないで……それ以上言わないで……」
ジェフティは恐怖に満ちた表情で私を見つめ、両手を口元に当てて懇願した。
まるで悪い夢から醒めるためのおまじないのように。
いいや、ジェフティ。これは君が知るべき真実だ。
君の近くにいた偽善者の罪を。
「その記者は、僕だ。」
私は銃を手に取り、弾丸を装填した。
「僕がやったんだ。」
ジェフティは黙ったまま立ち尽くしている。
彼女の眼から堰を切ったように涙が溢れた。
残酷なのは分かっている、それでも私は賭けに出たかった。
自分のために、そして何よりジェフティのために。
「撃つんだ、ジェフティ。」
私は銃口を心臓に向けた。
「そうすれば、君の復讐は終わる。」
ジェフティを脱出させるには復讐の束縛を解かなければならない。
姉との段取りはつけてある、友人たちにも連絡を取った、絶対に問題はない。
私はジェフティの眼を直視できず視線を落とした。
視界の隅でジェフティの手が震えているのが見えた。
引き金を引こうと拳を握ったり緩めたりを繰り返している。
彼女は銃を何度も構えるも、途中で下ろしてしまう。
それでも遂に、引き金を引くジェフティの指は震えていた。
さようなら、ジェフティ。
私は目を閉じ、銃弾が体を貫く瞬間を待った。
しかし、銃声は遂に聞こえなかった。
代わりに胸に強くストックを叩きつけられ、私は地面に押し倒された。
私が目を開けて状況を確認する前にジェフティの泣き声が聞こえた。
彼女の体はかろうじて銃で支えられていた。が、足元からゆっくりと絶望の淵へ沈み込んでいった……
ジェフティは泣き叫び、心の痛みは涙と嗚咽に混ざり合いながら胸から零れ落ちていく。
それはまさしく苦悶の叫びだった。
「どうしてあなたなの!どうして!あなただけ!あなたしかいないのに!」
言葉が出なかった。
何かを呟こうとしたが、唇が震えるだけで何も発せなかった。
私はこの傷ついた天使に触れようと手を伸ばした。
しかしジェフティはまるで親に叱られた子供のように、即座に手を払いのけた。
それ以上自身に苦痛を与えるものを避けるために。
とても辛かった。
目の前の少女と付き合って3か月しか経ってない。
しかし、彼女が私を拒否するとどうしてここまで心が痛むのだろう。
私が彼女の敵であることは明白だ。
彼女が私を避けるのは当然のことだ。
それなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
どうしてこころが痛むのだろう……
私は……
ジェフティを愛してしまったのか?
この思いに至った瞬間、私は愕然とした。
何故そんな……ありえない、私はどうしてこんな考えを!
私は彼女の両親を殺した黒幕、それは疑いようのない事実だ。
そして私は、贖罪のために彼女の復讐を手助けした偽善者だ。
彼女を好きになる資格などない!何の資格も存在しない!
ただ、目の前の少女をこれ以上泣かせたくないだけだ。
これ以上、1分1秒たりとも。
「この弾丸を撃ったら、一緒に南極へ行こう……僕は」
胸が張り裂けそうだった……
「僕はもう二度と君を泣かせない……」
「……」
静寂。
静寂が続く。
果てなく続く静寂の海に溺れそうになった時、ささやきが私を夜空へと連れ戻した。
「……うん……」
月明かりの下、全てが平和に、とても平和に見えた。
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