西暦2080年。
ユーラシア大陸全土が無意味な消耗戦の舞台となり果てている。
振動弾頭の使用、その報道は数か月前ならばピューリッツァー賞受賞もありえたことだろう。
しかし、今は純粋に数字としての意味合いしか持たない。使用された弾頭数、それによってもたらされた死傷者、その二つだけだ。
南極陸軍ヨーロッパ派遣隊対外情報部の許可を得て、私は取材のためこの地を訪れることが出来た。
南極軍兵士たちは連合政府の言うような殺人鬼ではなかった。これは正当なプロパガンダであるが、しかしこの報道を行った同業者たちにまっとうな職業倫理感はなかったのか、私は疑わざるを得ない。
戦争とは人間同士の争いであり、双方ともに普遍的な良心を持っている。
かつて私は常にそう思っていた、あの事件が起きるまでは。
「これほどまで簡単に人を殺せるのか」あの時、そう初めて実感した。
理由など必要ない時もある。
私がいた部隊の駐留先は典型的なヨーロッパの街だった。
レンガと石壁で作られた街並み、ゴシック建築、そして人のいい住人達。
運命のいたずらか、私は出発間際に体調を崩してしまった。
22世紀を目前に控えた現代であっても、風邪という病気はまだ根絶できていない。
私はそこに住んでいた家族の世話になった。その家で療養しつつ後方から医療班が追いついた際に回収されたのだ。
看護してくれた家族は4人暮らしで小さな町に住むごく普通の一家だった。
主人は長距離トラックの運転手であり、補給部隊として連合軍に徴兵され南極軍が町を占領する前に離れていた。
奥方は美しく優しい女性で、毎日一生懸命に家事をこなしている。
数少ない家具は新品のように磨き上げられており料理もおいしかった。
後の2人、1人は夫妻の息子であるガモン。
もう1人……それが彼女、ジェフティという少女だった。
彼女にとって私は初めて目にする異邦人に過ぎなかったかもしれない。
しかし私にとって、この時期に体調を崩し、この家族から療養して貰えたのは非常にありがたいことだった。
そう、彼女こそ私が心の中で追い求めていたモデルであり、直に接することができたのだから……
初めてジェフティを見かけたのは軍が市街地へ進駐してきた時。そう、クリスマスの時だった。
私は補給部隊のトラック内で凍えていた。
圧倒的技術力を持つ南極陸軍も、全ての輸送車両の荷室にまでエアコンを装備することは叶わなかったようだ。
配られた戦闘糧食を齧りつつ車外から漂ってくる七面鳥の匂いを嗅いでいると、この職業を選んだ自分自身を呪わずにはいられなかった。
もしあのままゲティスバーグ研究都市の本社にいたなら、今頃編集者として空調の効いたオフィスにいたかもしれない。だが手に持っているカメラはきっと泣いていただろう。
とりとめのない考えを振り払いつつ車外へカメラを向ける。
今日はクリスマスだ、赤い服を着たオヤジがプレゼントとして素晴らしい写真を届けてくれるといいのだが。
……幼少のころ、私はその存在を信じていなかった。
しかし今になって赤服に白髭のおじさんはサプライズを届けてきた。
……フェイデス・クミコ氏は「カメラマンにとって理想のモデルとは非常に稀有な存在である」と語った。
2059年のエステル氏のように。
彼女との出会いは全世界のカメラマンにとって神話のように語り継がれている。
かつて、極東の戦場で偶然救出された少女。しかし、彼女はその後20年に渡り彼の人生の中心であり、唯一の主演であり続けた。
彼らがその後生涯のパートナーとなったのは、まさに神話と呼ぶべき事象だろう。
戦場カメラマンにとり、彼女のような被写体が一生に一つでも映し出せれば、それだけで十分歴史に残るといえる。
私はこの日、自分自身にとって最高のモデルを見つけた。
カールツァイス製の高倍率レンズを通し、まるで女神のように突如として彼女は現れた。光輪に包まれたクリスマスツリーの下で天使は歌っていた。その神聖な歌声、通りを歩く人々も思わず足を止めて聞き惚れ、行軍していた輸送隊すらまるで自身の放つ音がこの美しい瞬間を破壊することを恐れるかのように停まった。
少し着古されたドレス、急いで付けられたのであろう作り物の羽。
普通の日に見たならむしろ滑稽に見えたであろうその衣装も今は全てが最適だった。
少女の周囲は光を浴び、ドレスや翼の縁が柔らかな光を放っている。見ているだけで心が温かくなる光景だった。
少女は目を閉じ、両手を胸に当て静かに歌い続ける、まるで周囲の世界と切り離されたかのように。そう、彼女はトラウマを抱えた世界のために歌い続けているのだ。
高感度フィルムは全てを忠実に映してくれた、少女の笑顔、動き、表情、その全てを克明に。そして私の心中にも深くそれは刻まれた。
見つけたのだ、私だけの女神を。そのことだけが忌まわしい戦争における唯一の慰めだった。
食い意地の張った子供から女神の名前を聞き出すため、貴重なチョコレートを二箱も消費しなければならなかった。
“ジェフティ”
なんと珍しく、しかし美しい名前だろう。
運命的なことに、この家に来て最初に出会ったのが彼女だった。
高熱にうなされ、ほとんど何も見えず聞こえずグロッキー状態だったことだけは覚えていた。
頭は首から落ちそうなほど重かったが、常に誰かが付き添ってくれたことだけは感じていた。
顔を見ることもできず何を言っているかも聞き取れなかったが、額に当てられたタオルはこまめに替えられ、その冷たさのおかげでだいぶ具合はよくなっていった。
また時折、優しい歌声が百合の香りと共に聞こえてくることも。
残りの記憶は濃厚で熱いスープと苦い解熱剤だけだ。
ある日、突如覚醒した私は覚えのない場所に寝かされているとようやく気付いた。
その時初めてそばで見守ってくれた少女に気づいたのだ。
世界で唯一のモデル、私だけの女神がそこにいた。しかし彼女はあの時と大きく変わっていた。白いロングドレスの上から防寒のためのショールを羽織り、長い銀髪が月光のように静かに肩から下がっている。
細い肩は絶えず動き、目から滴り落ちた涙が手にした写真へシミを作っていく。
「パパ……ママ……」
この言葉の意味、その背後に存在する悲劇と罪に私が気付くまで長い時間がかかった。
幸いなことに手先を動かすことはできた。なら起き上がれるかと思ったが、鍛え上げた腕に力は全く入らず、少し身体を起こしただけでまたベッドに倒れてしまう。やはりまだ回復してないようだ……
「お、起きたの……?」
少女は少し警戒したまま写真を慌ててポケットにしまいこんだ。
彼女を直接見るのはこれが初めてだった、充血した目と若干の栄養失調が伺える頬、それでもとてもきれいな顔立ちだった。
平時ならきっとアイドルになれただろう、カメラマンとして絶対の自信をもって思った。
だが今は戦時中である、クソが。
「まだどこかおかしいの?」
彼女は意外と洞察力があるようで、私の表情の変化を察したようだ。
「ちょっと待ってて、おばさんを呼んでくる」
私に毛布をそっとかけ簡単にベッドメイキングを施すと、彼女は2階へ上がっていった。ほのかな百合の香りと、あたたかな温もりを残したまま。
彼女の叔母はヴィーナ・フォン・ジットといい、とても魅力的でエレガントな女性だった。彼女しばらく話すことで、この普通の家族が戦争によってどれだけ傷ついていたかが分かった。
ヴィーナの夫でありこの家の主人は、南極軍がベルリン空挺作戦を行うその時、連合軍によって輸送部隊のドライバーとして徴兵された。半年近く前に家を出たっきり音信不通だという。
軍の統制下における生活は正直に言って楽ではない。
ヴィーナはパン屋を辛うじて営業している。しかし食材を手に入れようにも戦争とそれに伴う封鎖の影響で常に欠品、遅配が日常茶飯事だった。
パン屋に並ぶ商品の種類は非常に少なく、常に出せるのは黒パン程度。
ジェフティはヴィーナの妹の娘だ。
彼女は2か月前、避難してきた難民の一団と共にこの町へ来た。その時彼女は一言もしゃべらず、誰ともコミュニケーションを取らなかったという。
「無言で座り込み、時折涙を流す。生きているというよりただ存在しているだけという状態だったわ
まるで魂のない空っぽの人形みたいに、厭世的に世界を見ながら日々を過ごしていたの。最近になってようやくよくなってきて今は一応笑顔でいるけど、ときたま前みたいに一人で泣いてるの。」
両親の行方を聞かれた時、ジェフティは以前のように黙って泣くだけで何も語らない。
大変な生活だったが、私はその中にも不思議と居心地の良さを感じていた。
ジェフティもガモンも、とても賢い子供たちだった。戦争を経験しているためか、ジェフティは同年代の子供より大人びていると思うことがある。本部に入ってくる新人どもの半分が彼女のように成熟した感性を持っていればサングラスをかけふんぞり返ってる老人どものストレスも減るだろう。
……そんなとりとめのないことを考えてしまう。
ジェフティの念入りな看護のおかげでその日を境にベッドから起き上がることができた。
北欧の気候はよろしくない。特にブリテン諸島制圧作戦において連合政府軍が無謀にも不完全な気象兵器を使用してからというもの、北欧全域の気温は20度も低下した。
今やほとんどの地域が北極圏周辺とほぼ同じ環境となり、吐息が凍り付く極寒地域になった。
元々市街に備わっていた都市空調システムは役立たずとなり、各家庭の暖房は原始的な配管暖房に頼らざるを得なくなっている。
私から言わせてもらうと、これはもはや実用性より心理的安寧のために使われているようなものだ。
結果的に人々は屋内でも白熊のように着込まなければならない。
病気から回復したばかりの私など言うまでもない。
何しろ本部は地下都市にあり、体はその頃の生活に慣れてしまっていたのだから。
そのため数日間は大学生活に戻ったかのようだった。
部屋に引きこもり、山積みの写真を端末に取り込む毎日。
まぁ山積みの資料やレポートを整理するいい機会だった。
そして作業をしていると席の向こうにいるジェフティ照れ笑いを浮かべていた。
そしてガモンを引き寄せ、2人にしか聞こえない声で何かを囁いた。
その度にガモンは目を真っ赤にして私のところへ寄ってくる。
「僕とお姉ちゃんが結婚できないってホント?」
「えっと……」
子供のころ似たような経験があったにも関わらず、この質問にどう答えればいいか分からなかった。
「なあ、ガモン。騎士とお姫様の話を聞いたことはあるかい?」
「うん、知ってる!その話は大好き!」
彼はまだ子供だ、すぐ話に食いついた。
「昔、ある男は騎士になりたかったんだ、騎士にとって大切なのはドラゴンを倒すことだけじゃない、仕えるべきお姫様を見つけ自分の全てをかけて彼女を守ることも重要なんだ。彼女が傷つかないよう全力で守るんだよ。」
私が言い終わる前にガモンは飛び上がった。
「だったら僕がお姉ちゃんの騎士になる!」
そしてそのまま傍らの少女に抱きついた。
まるで世界一の宝物を見つけたかのように満足げな表情で。
少女は優しく微笑みガモンを抱きしめる。
この兄弟はとても仲がいいようだ、私と姉とは全く違う。
そう考えた瞬間、12mmショットガン(訳者注:原文ママ)を抱えたメスゴリラの姿が鮮明に頭に浮かんだ。
全く、同じ世界の生き物とは思えない。
「ねえお兄ちゃん、この写真に写ってるのはだれ?」
姉に甘えた後、ガモンはまた戻ってきて写真の山から宝探しを再開した。
どれどれ?と私は振り返った。「あぁこれはお兄ちゃんの両親の結婚式だ。」
ガモンは興味なさげな顔をした。
そして一瞬首をかしげながら「そういえばお姉ちゃんも持ってる!」
「マズイ……」私の反応を待たずにガモンは続きを言い放った。
「おじちゃんとおばちゃんの写真だよ!」
その瞬間、少女の目は一瞬で真っ赤になり水晶のような涙が零れ落ちた。
「わたし……失礼します……」
そう言うなり彼女は二階へ駆けあがった。
「大変だ……」
ヴィーナが説明してくれたことを思い出し、私は急いで後を追った。
階段を上ろうとした瞬間、低いすすり泣きが聞こえてきた。
少女は階段の隅にしゃがみ込み、腕の中に頭を埋め泣いていた。
「……ヴィーナおばさんから話は聞いたよ、ご両親のことは本当に残念だった。」
静かに彼女の脇に座る。
まず落ち着くのを待ってからゆっくりと話しかけた。
彼女はすすり泣くのをやめ、ただ静かに首を横に振る。
腕の中に頭を埋め、銀色の髪を無造作に床に投げ出したまま。
「これを食べるんだ、少しは気分がよくなるはずだよ。」
ポケットからチョコレートを出して彼女に渡すも、少女は首を振るだけで何も言わない。
……
…………
「あのね、ジェフティ。」
なら、あれを試してみるしかないようだ。
「僕の両親も既に亡くなってるんだ。」
「えっ?」
ジェフティは驚き顔を上げた。
「そう、僕の目の前で……」
永遠に思い出すまいと誓った過去を幼い少女相手に自然と打ち明けることになるなんて、思いもよらなかった。
ジェフティとの出会いと同様、これも運命なのだろうか?
私の両親は連合政府へ技術支援に向かった最初の技術者だった。
その後、連合政府は急進派を抑えられなくなり、内地に残された技術者たちは棍棒を持った無数の暴徒に襲われた。
護衛するはずの連合兵士までもが丸腰の技術者を殴り飛ばした。
ゴム弾で応戦した数少ない治安部隊は多勢に無勢でリンチされた。
両親は技術支援チームのリーダーだったため最後の船で帰ることとなり、私をある友人へ託した。
そして、私が乗船して数分後。
暴徒が遂にゲートを突破し避難場所を襲った。
私が見た両親の最後の姿は、暴徒によって地面に叩きつけられた瞬間だった。
遺体は南極へ戻らず墓には両親の服と遺書だけが埋められた……
ジェフティは静かに私の話を聞き、終わった後も暫く黙っていた。
「……じゃあ、復讐について考えたことはある?」
それを聞き、私は苦笑いした。
「ああ、あるよ。あの時内地にいた人を皆殺しにしたくてたまらなかった。けど……」
「私も……」
「え?」
「私のパパとママも目の前で死んだ……どうして!何も悪いことなんてしてないのに!何で殺したの!!」
ジェフティは突然大声で叫んだ。銀髪に覆われた顔には涙の跡が残っていたが、その眼には怪物のような憎しみが宿っていた。
「ジェフティ……」
「そうよ、奴らが!ヘリコプターで私の両親を殺したの!!」
「どうして誰も理解してくれないの!誰もあの悪魔を殺さないの!!」
ジェフティは立ち上がり、私の襟首を少女のものと思えない力で締め上げた。
その声はまるで私を両親を殺した「悪魔」と糾弾するかのようだった。
そして私には抵抗する気力など無かった。
ヘリコプター……
二か月前……
殺人……
僕なのか?
どうして?
僕が?
僕が!僕が!僕が!僕が!僕が!僕が!
僕がジェフティの両親を殺した。
僕がジェフティの両親を殺した……僕がジェフティの両親を殺した……僕がジェフティの両親を殺した……僕がジェフティの両親を殺した……僕がジェフティの両親を殺した……僕がジェフティの両親を殺した…
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!」
私は声を失い悲鳴を上げ、記憶の中から全てを押し出すかの如く両手で頭を抑えた。
ただ、それは私をあざ笑うかの如くどんどん鮮明になっていった。
意識を失う直前に見たのはジェフティの驚いた表情と、宙を舞う銀髪だけだった。
私は手を伸ばしてそれを掴もうとしたが出来なかった。
掴むことが出来なかった……
僕がやった……
・前章:
・次章:翻訳中…
コメント