警告:
この映像資料は機密文章<Byatis-1976-05-30>に関連するものです。関連資料の閲覧権限を持たない場合速やかにセキュリティ職員が急行、懲戒措置をとります。60秒以内に正しい認証情報を入力して下さい。
映像資料:
波が無音で波止場に打ち寄せ、サーチライトの照明が澄み切った地底湖の底を照らしている。
しかしその光は全て湖面に吸いこまれ、果てしなく深い闇のみが残っていた。
湖のそばにはプラットフォームが建設され、何人かの海兵隊員が命令に備えて待機している。彼らの持つ武器は銃と撮影機器を組み合わせた非常に複雑な物と推測される。彼らはプラットフォーム内のダイビングエリアを覗いていたが、突如小型潜水艇が出現し、周辺の水面を揺らしている。
・・・この映像は、南極氷河直下のD-1遺跡(通称: ビクトル-タンゴ)で行われた第11回「自由の女神」計画実験を映したものであり、計画中実施された7番目の有人実験映像である。実験はボストーク地底湖で発見された「ゲート」を介して小型潜航艇をロスアラモスのD-2遺跡に転送することを目的としていた。先に行われた6回の有人実験は5回成功、1回失敗であり、参加者19人中3人が殉職した。
映像内で進行中の第7回実験では潜水艇が既にゲートの物理影響範囲から離脱、浮上していた。
・・・映像が切り変わる
写真番号:
ルイマンの個人情報、病理資料、兵科、レントゲン写真、病床にて横たわる姿・・・
映像資料:
減圧室の内部にてルイマンが病床に横たわっている。肌は内側から青黒く変色しており、顔は土気色で生気が全く見られない。顔面にもシミが出始めており、人工呼吸器によって生命維持が成されている。ベッド脇に映るバイタルの表示は非常に不安定だ。
解説:
「ルイマン・ウェイライン」、米陸軍グリーンベレー所属の技術軍曹。これは彼が関わったビッグシブによる17回目の、そして自由の女神計画7度目の有人実験だった。彼自身は自由の女神実験に3回参加、先に行われた2度の実験では特に異常が見られなかった。
だが3度目の実験後に減圧室で行われた検査の結果、ルイマンの体内タンパク質が著しく減少、タンパク質間の分子結合も損傷を受けており、全身の組織結合が分断されていた。身体の異常な老化により筋組織が脆くなり、血中酸素濃度低下、赤血球量の減少が発生。更に骨中カルシウムの異常凝固によってブリカネル硬さが急速に増加した。
当時の技術的制約により医療スタッフはルイマンの病状を把握できず、放射性障害と見なすしかできなかった。
実験終了から61時間後、ルイマンは死亡した。死体のブリカネル硬さは400HB(N/㎟)に達しており、鋼の硬さをも越えた状態だった。
・・・現在の視点から見ると、ルイマンがA型E.L.I.Dに感染したことは明らかである。遺跡に長時間接触し、比較的長い潜伏期間をえたのち、24~48時間程度をかけて体内の組織結合が分解され、タンパク質の分子結合が切断された。しかしルイマン本人の体質により、彼はDNAが再構築するまで生き残ることが出来なかった。彼にとって唯一の幸運だろう。
しかし、我々にとっての不幸は続いた。1980年までに世界全体でのE.L.I.D感染者は15万人を越え、その中で「ED Infected」にまで変異したものはおよそ1万体であった。米国・ソ連を筆頭に各国でE.L.I.D進行を抑制する実験が行われたもの、成果は一切生まれなかった。患者ごとに条件がまるで異なり、ED Infectedへの変異パターンも完全にバラバラで規則性が無いことが原因であった。このため、E.L.I.Dとの戦闘において統計学的手法で得られたデータはまるで役に立たたなかった。各国は精鋭を集めた対ED Infected部隊を設立したが、技術・経験の双方が不足しており、死亡率は極めて高かった。
さらに当時はE.L.I.Dへの感染経路が特定されておらず、治療・予防する手立ても一切無かった。そのため感染したら最後、事実上死刑宣告を受けるも同然の状態だった。この状況は1983年から米ソ両国がワクチン研究を始めて以降徐々に緩和されていった。
そして、このような状況になってなお、遺跡兵器による力とそれがもたらす可能性は魅力的だった。1981年、アフガニスタン紛争の泥沼に沈み込んだソ連は、励起状態の「使用人」を実戦投入した。これこそ、遺跡兵器が初めて実戦投入された事案だった。
警告:
この映像資料は機密文章<Chaugnar Faugn-1976-05-30>に関連するものです。関連資料の閲覧権限を持たない場合速やかにセキュリティ職員が急行、懲戒措置をとります。60秒以内に正しい認証情報を入力して下さい。
静止画:
非常に高高度、衛星軌道上から撮影したと推測される写真であり、山岳部ののどかな集落を映し出している。急峻な崖の下に小屋が固まっており、周囲には草をはむヤギの姿も確認できる。
次の画像では何かが集落を通過し破壊の跡のみを残して消え去っている。破壊跡は砲撃による物で無く、約4m幅の正体不明の物体が集落上の全てをなぎ払ったかのようだ。一帯は高熱に冒されたかのようであり、何軒かの小屋は一部が抉り取られてるものの、その部分以外は完全に残っている。白骨が僅かに光を反射しているものの、死体を漁るハゲタカの姿すら見えない。
解説:
この資料は1981年1月にKH-11偵察衛星が撮影した写真である。2つの写真を撮るのにかかった間隔は89分。
この集落はムジャーヒーディン幹部が滞在する重要拠点だった。残された痕跡を詳しく見ると、1962年のモスクワ軍事パレードにてトレーラーが残した痕跡と同じことが分かる。この幅4mの痕跡は、ソ連がアフガニスタンに使用人(スクワイアーズ)部隊を投入したことを示している。進路上の有機物を完全分解し、全てを破壊するのにかかった時間は5000秒未満、生存者はゼロだった。この集落にはRPGや迫撃砲こそ無かったもの、大口径機関銃の配置が確認されている。しかし、残された襲撃跡は使用人に明確なダメージが無かったことを示しており、僅かな人骨以外に人がいた痕跡そのものが消え去っていた。
この決定的証拠から、ソ連がカイバル峠に励起状態の使用人を配備したことが明らかとなった。当時NATO軍司令部が導き出した結論は、現状の西側機甲部隊では戦術核による支援無しで正面から使用人を撃破することが不可能ということだった。
1981年に入ってなお、E.L.I.D感染者は際限なく増え続けた。
「1976年に最初の症例が報告されて以降、1980年までに観測された感染者は15万人。しかし、そこから81年までの僅か1年で新たに5万人が発症した。」
同時にED Infectedへの変異者も増加、80~81年までに発症した5万人のうち、ED Infectedへ変異した者は10%にもなる5000人に迫り、新たな変異形態の観測も増大していった。感染者が増加する一方、膨大な人材・資本を投入したにも関わらず治療法研究は遅々として進まず、関係者は手をこまねくしかなかった。
ようやくこの状況に危機感を覚えた米国・ソ連は、バチカン・WHOの手配の元、ドレスデンにて密かに会談を行った。会談中、米ソは初めて遺跡・並びに遺跡兵器問題について情報交換し、E.L.I.D拡散防止のために議論した。
1981/11/3、米ソ両国はドレスデン条約に調印。両国は遺跡の研究・遺跡兵器の軍事配置を全て中止し、すでに実戦配備した兵器も解体することとなった。この条約は1991以降、我々のよく知る「ドレスデン協定」に発展、その後1世紀にわたり、人類の遺跡に対す基本姿勢が確立されたのである。
※ED Infected:通称、D型ELID
コメント
コメント一覧 (6)
設定資料集2にはOGASが「バラクーダ」と呼ばれる遺跡兵器の制御ネットワークとして使われたと書かれています。
バラクーダは1981年、アフガニスタン・カイバル峠で実戦投入されたらしいです・・・
現実では計画経済統制システムだったオガスがパン屋世界では兵器ネットワークとして実用化までこぎつけてたのは驚きです
軍部がオガスを欲したのは、来るべきルクセト連合において計画経済統制システムだったオガスに重要な役割を担わせる為だと思っていたのですが、単純に兵器として欲しているのでしょうかね?
兵器会社に過ぎなかった鉄血が、まかりなりにも戦争という究極の総合事業を年単位で行えているのはオガス本来の機能あってこそだと仮説を立てていたのですが、ちょっと違うのかな
返信遅れましたが、
ソ連は1980年以降にOGASの民生移行(経済管理)を進めたとされています。つまりあの世界のOGASは結果的に経済統制システムとして知られるようになっただけで、それまでは純粋な軍事インフラとして存在してたのです。
鉄血が無人化後も戦争を続けられるのはカーターによる支援の存在があるかもしれません。
「励起状態」が正しいですね、何か卑猥な兵器になってました()
教えていただきありがとうございます!