使用人(スクワイアーズ)
映像資料:
警告:
この映像資料は機密文章<Ammutseba-1958-05-13>に関連するものです。関連資料の閲覧権限を持たない場合速やかにセキュリティ職員が急行、懲戒措置をとります。60秒以内に正しい認証情報を入力して下さい。
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映像:
高空から撮影されたぼやけ、かすんだビデオ映像である。映像には5方向に伸びた巨大な人口建築物が写しだされている。建物の周囲は防衛施設に囲まれており、道路や飛行場が直接接続されている。飛行場には少なくとも1個連隊の航空機が配備されており、建物周囲も防空陣地によって囲まれていた。SA-2対空ミサイルは既に発射態勢に入っており、所狭しと並べられたミサイルを見ているだけで冷や汗が出てくるようだ。
解説:
これは我々が最初に得た「ヒトデ」の映像データである。この映像終了から30秒も経たないうちに偵察機は撃墜された。ソ連側の遺跡研究が急速に進展する一方、米国は自分たちの研究が如何に遅れているか肌身に感じていた。
1955年にワルシャワ条約機構が成立、これによってもたらされた混乱はむしろ西側諸国にとって千載一遇のチャンスとなった。米国と欧州はマーシャルプランによって蓄積された人材・資金を利用し、「鉄のカーテン」内部の東側諸国に諜報網を構築。その過程で米国は最初の遺跡情報を入手した。また同年、米国は自らの手で最初の遺跡を発見した。
1955年、南極にマクマード観測基地が建設された。基地地下1.1kmに位置するボストーク湖付近で米国は後に「ゲート」(D1)と呼称される遺跡を発見。ここの発掘によって得られた出土品は本土に送られ、これをベースとしてロッキード・マーチン社内にスカンクワークスという研究部門が設立された。U-2、SR-71、F-117、F-22、F/A-00などの製品は基本的に出土品の研究、リバースエンジニアリングによって得た技術を利用した物だ。1957年には米国で遺跡の戦略的影響力を考慮しつつ研究を行う秘密組織「シフター」が設立された。
米国側が遺跡開発で出遅れていることをようやく理解し何とか追いつこうとしている一方で、ソ連側も現状に満足せず、更に研究を進めていった。
1958年にソ連情報部は米国がD1遺跡を発見したとの情報を入手。フルシチョフ直々の指示によって再編された国家保安委員会(通称:KGB)は遺跡の研究、発掘作業の全てを掌握し傘下の第16局に管理させた。これによってソ連の遺跡研究は更に順調な進捗を見せていく。
我々がモスクワ国立アーカイブから入手した情報によると、1950~80年にかけてソ連は国内で5ヶ所の遺跡を発掘した。シベリアヤンスク11のOkb-456、ウクライナのOkb-37、北極圏氷原下のOkb-10、カプースチンヤールのOkb-88、そして択捉島のOkb-115である。このうち、Okb-456とOkb-10は非常に大規模な遺跡であり、明らかにされた箇所の面積だけでも100万㎢を越えた。同時にカキラグの刑務所ではメンデレ博士と彼の資料を基にした医学実験施設が稼働し始めた。この施設は1981年のドレスデン条約発効まで活発な活動を続け、UN軍がフォークランド諸島に医学実験施設を作るまで世界最大規模の遺跡・科学技術研究施設だった。後に突撃兵系列に使用される人工アンキリン技術はここでの初期研究成果が使用されている。
米国も1955年のD1遺跡発見以降世界中の遺跡探索に全力を注いだ。1950~80年にかけて米国は国内で4ヶ所の遺跡を発掘した。南極マクマード観測基地地下のD1、ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所のD2、カリフォルニア州チャイナレイク基地のD51、ワイオミング州ウォーレン空軍基地のD9であり、以上4つの遺跡はシフターの直轄であった。遺跡発掘・研究のため当初米国は軍との共同体制を取っていた。1955年のD1遺跡発掘後すぐに空軍と連携してロッキード・マーチン社内にスカンクワークスを設立。1956年にD2が発掘された際は陸軍と連携してレッドストーン兵器廠と研究施設を建てた。1957年にソ連が初の人工衛星を打ち上げた後、米国は国防と科学技術政策にも目を向け始めた。ソ連の中央制御体制による研究速度に脅威を感じた米国は軍事研究戦略を大幅に変更、大学や民間企業を利用する方針へと変化。これによってシフターも科学研究と軍事を統括する組織から純粋な政府機関へと変わっていき、主な研究分野も遺跡の発見、保護、潜在的敵国遺跡の探査や破壊などに縮小されていった。これによってシフターは繁雑な研究作業から解放され、本来の任務に集中できるようになった。
遺跡研究については新たな組織であるARPA(Advanced Research Projects Agency、高等研究計画局)に任された。ARPAはアイゼンハウアー大統領が在任中、議会に直接法案を提出して設立した政府機関だった。この法案は提出されたその日に議会を通過、5日後には520万ドルの第1次予算が与えられ、1958年にARPAが正式発足するまで米国政府が投資した総額は2億ドルに達した。ARPAは国防長官直轄の組織とされ、強大な権限を持っており、これらの情報からいかに米国がソ連の研究成果を恐れていたか推測できる。遺跡と関連する研究へ多大な投資をしたために、1981年のドレスデン条約締結時米国はソ連に対して優位を保つことができた。
ARPAは普通の研究組織ではなかった。米国政府は設立の際、米国が常に技術先導国になるよう最新技術を軍事用として使えるようにすること、他国に研究分野で追い越されないようにすること、以上2点を命令した。ARPAによって実施された全てのプロジェクトは期限を必ず守らなければならなかった。どのようなチームであれ、期限内に成果を出せなかった場合は即座に解体され別のチームが後を引き継いだ。遺跡研究に出遅れた米国としては1つの失敗ですら命取りであり、期限超過は許される行為でなかったのだ。
こうして米国・ソ連による遺跡研究競争が幕を開けた。
1961年、ソ連はバシャールBに10年という歳月と計り知れない資金を投入し続け、遂にその成果を獲得した。バシャールBにて最初の製品が生産され始めたのだ。ソ連はこの製品を「スクワイアーズ」と呼称。1961年6月のウィーン会談、8月の東西ベルリンの封鎖、9月の米ソ核実験再開といった事件が起きた後、米国に脅威を感じたフルシチョフは1961年11月10日の革命記念閲兵式でまだ不確定状態にあったスクワイアーズを公開した。
これは人類史上初めて、遺跡由来の技術によって作りだされた物が正式公開された事件だった。
翻訳元:http://gall.dcinside.com/mgallery/board/view/?id=bjsn&no=1202632
高空から撮影されたぼやけ、かすんだビデオ映像である。映像には5方向に伸びた巨大な人口建築物が写しだされている。建物の周囲は防衛施設に囲まれており、道路や飛行場が直接接続されている。飛行場には少なくとも1個連隊の航空機が配備されており、建物周囲も防空陣地によって囲まれていた。SA-2対空ミサイルは既に発射態勢に入っており、所狭しと並べられたミサイルを見ているだけで冷や汗が出てくるようだ。
解説:
これは我々が最初に得た「ヒトデ」の映像データである。この映像終了から30秒も経たないうちに偵察機は撃墜された。ソ連側の遺跡研究が急速に進展する一方、米国は自分たちの研究が如何に遅れているか肌身に感じていた。
1955年にワルシャワ条約機構が成立、これによってもたらされた混乱はむしろ西側諸国にとって千載一遇のチャンスとなった。米国と欧州はマーシャルプランによって蓄積された人材・資金を利用し、「鉄のカーテン」内部の東側諸国に諜報網を構築。その過程で米国は最初の遺跡情報を入手した。また同年、米国は自らの手で最初の遺跡を発見した。
1955年、南極にマクマード観測基地が建設された。基地地下1.1kmに位置するボストーク湖付近で米国は後に「ゲート」(D1)と呼称される遺跡を発見。ここの発掘によって得られた出土品は本土に送られ、これをベースとしてロッキード・マーチン社内にスカンクワークスという研究部門が設立された。U-2、SR-71、F-117、F-22、F/A-00などの製品は基本的に出土品の研究、リバースエンジニアリングによって得た技術を利用した物だ。1957年には米国で遺跡の戦略的影響力を考慮しつつ研究を行う秘密組織「シフター」が設立された。
米国側が遺跡開発で出遅れていることをようやく理解し何とか追いつこうとしている一方で、ソ連側も現状に満足せず、更に研究を進めていった。
1958年にソ連情報部は米国がD1遺跡を発見したとの情報を入手。フルシチョフ直々の指示によって再編された国家保安委員会(通称:KGB)は遺跡の研究、発掘作業の全てを掌握し傘下の第16局に管理させた。これによってソ連の遺跡研究は更に順調な進捗を見せていく。
我々がモスクワ国立アーカイブから入手した情報によると、1950~80年にかけてソ連は国内で5ヶ所の遺跡を発掘した。シベリアヤンスク11のOkb-456、ウクライナのOkb-37、北極圏氷原下のOkb-10、カプースチンヤールのOkb-88、そして択捉島のOkb-115である。このうち、Okb-456とOkb-10は非常に大規模な遺跡であり、明らかにされた箇所の面積だけでも100万㎢を越えた。同時にカキラグの刑務所ではメンデレ博士と彼の資料を基にした医学実験施設が稼働し始めた。この施設は1981年のドレスデン条約発効まで活発な活動を続け、UN軍がフォークランド諸島に医学実験施設を作るまで世界最大規模の遺跡・科学技術研究施設だった。後に突撃兵系列に使用される人工アンキリン技術はここでの初期研究成果が使用されている。
米国も1955年のD1遺跡発見以降世界中の遺跡探索に全力を注いだ。1950~80年にかけて米国は国内で4ヶ所の遺跡を発掘した。南極マクマード観測基地地下のD1、ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所のD2、カリフォルニア州チャイナレイク基地のD51、ワイオミング州ウォーレン空軍基地のD9であり、以上4つの遺跡はシフターの直轄であった。遺跡発掘・研究のため当初米国は軍との共同体制を取っていた。1955年のD1遺跡発掘後すぐに空軍と連携してロッキード・マーチン社内にスカンクワークスを設立。1956年にD2が発掘された際は陸軍と連携してレッドストーン兵器廠と研究施設を建てた。1957年にソ連が初の人工衛星を打ち上げた後、米国は国防と科学技術政策にも目を向け始めた。ソ連の中央制御体制による研究速度に脅威を感じた米国は軍事研究戦略を大幅に変更、大学や民間企業を利用する方針へと変化。これによってシフターも科学研究と軍事を統括する組織から純粋な政府機関へと変わっていき、主な研究分野も遺跡の発見、保護、潜在的敵国遺跡の探査や破壊などに縮小されていった。これによってシフターは繁雑な研究作業から解放され、本来の任務に集中できるようになった。
遺跡研究については新たな組織であるARPA(Advanced Research Projects Agency、高等研究計画局)に任された。ARPAはアイゼンハウアー大統領が在任中、議会に直接法案を提出して設立した政府機関だった。この法案は提出されたその日に議会を通過、5日後には520万ドルの第1次予算が与えられ、1958年にARPAが正式発足するまで米国政府が投資した総額は2億ドルに達した。ARPAは国防長官直轄の組織とされ、強大な権限を持っており、これらの情報からいかに米国がソ連の研究成果を恐れていたか推測できる。遺跡と関連する研究へ多大な投資をしたために、1981年のドレスデン条約締結時米国はソ連に対して優位を保つことができた。
ARPAは普通の研究組織ではなかった。米国政府は設立の際、米国が常に技術先導国になるよう最新技術を軍事用として使えるようにすること、他国に研究分野で追い越されないようにすること、以上2点を命令した。ARPAによって実施された全てのプロジェクトは期限を必ず守らなければならなかった。どのようなチームであれ、期限内に成果を出せなかった場合は即座に解体され別のチームが後を引き継いだ。遺跡研究に出遅れた米国としては1つの失敗ですら命取りであり、期限超過は許される行為でなかったのだ。
こうして米国・ソ連による遺跡研究競争が幕を開けた。
1961年、ソ連はバシャールBに10年という歳月と計り知れない資金を投入し続け、遂にその成果を獲得した。バシャールBにて最初の製品が生産され始めたのだ。ソ連はこの製品を「スクワイアーズ」と呼称。1961年6月のウィーン会談、8月の東西ベルリンの封鎖、9月の米ソ核実験再開といった事件が起きた後、米国に脅威を感じたフルシチョフは1961年11月10日の革命記念閲兵式でまだ不確定状態にあったスクワイアーズを公開した。
これは人類史上初めて、遺跡由来の技術によって作りだされた物が正式公開された事件だった。
翻訳元:http://gall.dcinside.com/mgallery/board/view/?id=bjsn&no=1202632
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